航海は大きな船で

弁財船
ベザイ船と呼ばれた日本型帆船。江戸時代から使われていた船です
西洋型帆船
外洋での航海ではベザイ船より安定した西洋型帆船。明治、大正の頃、新潟港では北洋漁業で使われた帆船がたくさん見られました
機帆船
北洋漁業を行っていた鈴木佐平(新潟市上大川前通)が所有していた千代丸。煙突がある汽船ですが、マストがあって帆をあげることができるので機帆船きはんせんと呼ばれました

新潟港からカムチャツカ半島までは、当時の船では着くのに1ヶ月くらいかかったといわれています。船には漁で使う網や小舟、現地で漁を行う間の食料や身の回り品、道具類やつかまえた魚を漬ける大量の塩を積み、現地で漁や魚の加工を行う当時「漁夫ぎょふ」と呼ばれた人たちを乗せて出かけます。帰りには魚を積んで帰ってきますから、大きな船が必要でした。

北洋漁業が始まった明治10〜20年代はおもにベザイ船と呼ばれた日本型帆船はんせんが使われ、次いで西洋型帆船が使われました。帆船は風がないと進まないので航海は大変です。大正時代の前後頃からスクリューがついた汽船が使われ始めました。汽船では航海にかかる期間が半分ほどになり、大型のため一度にたくさんの荷物を運ぶことができます。

北洋漁業を行っていた東洋物産株式会社(本社新潟市上大川前通)が明治の末に使っていた汽船鎮西丸ちんぜいまる(318トン)がこの当時新潟の北洋漁業で使われていた最も大きな船で、1せきで4つの漁場の輸送を担っていました。

漁は小さな船で、魚はその場で加工

樺太サケマス漁
昭和初期サハリン島での漁の様子です。浜から小舟を出し、網に掛かったサケマスを引きあげて浜へ運びます
サケマス漁
つかまえたサケマスはすぐに内臓を取り出し、塩漬けにされました。冷蔵庫がなかった時代、捕まえた魚を新潟まで持ってくるのに必要な作業でした
サケマスは塩漬けにされましたが、ニシンは干物か浜で丸ごと煮てから絞り、畑の肥料になる「かす」に加工されました

写真は新潟市の北洋漁業家、鈴木佐平が昭和初期にサハリン島の自分の漁場で撮影したものです。ロシア沿海州やカムチャツカ半島は人口が少なく、道路もなければ商店もなく、漁をする人、漁に必要なものはすべて海から船で持ち込みます。そして浜で準備を整えると沖に網を仕掛けて魚を捕ります。冷蔵庫も冷凍庫もない時代なので、捕った魚はその場で加工し、塩漬けなどにして保存性をよくしてやります。漁夫は船を出して漁をする人と、獲った魚を加工する人に分かれていました。

漁場で働く人たち

漁場で働く漁夫たちは、北洋漁業家と呼ばれた漁場の経営者にやとわれた人たちで、大きな漁場では数十人も集められました。北洋漁業が盛んだった時期は、新潟港から1000人以上の漁夫が漁に出ており、その多くは新潟市北区、西蒲区の沿岸地域の村から集められていました。新潟出身の漁夫は新潟の北洋漁業家だけでなく、北海道の漁業家や、ロシア人の漁業家にも雇われて働いていました。

1900(明治33)年8月16日付の新潟新聞に、サハリン島の漁場で強盗に襲われて怪我を負った人が亡くなったという記事が載っています。この漁場はロシア人が経営していました。亡くなったのは新潟市本町通二番町で生まれた小泉平作という人で、安政3年生まれとありますから当時43才くらい。亡くなる数年前に北海道函館市に戸籍を移していたそうです。

漁は夏だけ

漁は一年中行うわけではなく、だいたい6月から8月の間だけ行われました。行き先によって5月末〜6月に新潟から船を出し、1ヶ月半ほど現地で漁を行い、8月には漁場を引き上げて9月に新潟港へ到着します。

1919(大正8)年5月にカムチャツカ半島へ漁に出た記録では、5月1日に函館港を出港し、カムチャツカ半島の目的地に近づいたけれど氷に閉ざされて船を進めることができず、5月15日にようやく漁場に荷物を下ろしたそうです。浜に着いてみたら地面が深さ15センチくらいまで凍っていたのですが、それでも「想像よりはやわらか」と書かれています。サケが産卵のため岸に近づく時期を漁期としていることもありますが、高緯度地域のため夏以外は氷に閉ざされてしまう場所でした。