船が来ないなら船を出そう!

国際貿易港なのに貿易船が訪れなかった新潟港。ところが1889(明治22)年、新潟港から船を出して国際貿易を果たした人たちが現れました。出かけた先は新潟から日本海を渡った先にあるロシア、ウラジオストクとその周辺です。ウラジオストクは当時まだ大きな都市ではなく、売り買いするものがあまりないため、現地で売るもののほかに自分たちの食料を積み、現地でサケマスを捕り、塩漬けにしたものを新潟に持ち帰ってきました。この年の輸出は2,200円あまり、輸入は4,020円あまり。日本全体の貿易額からするとほんのわずかでしたが、新潟港の前年の貿易額は輸出入合わせて16円90銭でしたから、新潟港にとっては大きな出来事でした。

『新潟税関沿革史』はこの年を、「新潟港史上最も記憶すべき年度とす」と締めくくっています。

伏見半七ふしみはんしち西尾与平にしおよへい

新潟を出航した船の名は日本型帆船の光正丸こうせいまる(66t)。計画したのは伏見半七と西尾与平だったとされています。

伏見半七は新潟の対岸、沼垂町に生まれ、新潟で船による輸送に関わる仕事をしていました。当時は信濃川を境にして西側が新潟、東側が沼垂。大正時代に合併しますが、この頃は別の町でした。江戸時代、天領になる前の新潟は長岡藩の領地で、沼垂は新発田藩の領地。港があったのは信濃川西岸の新潟側だけです。

西尾与平は石川県七尾の人です。七尾は新潟と同様、江戸時代から港で成り立っていた町。この年の4月に大日本帝国憲法が発布され、西尾与平は初代七尾町長に就任していました。新潟港の貿易が不振で町の将来が危ぶまれたように、七尾町長の西尾与平も町の将来を考えて開港地の新潟を訪れたのでした。

二人はこの航海を成功させたあと、伏見半七は新潟とウラジオストクの貿易を盛んにしようと、ウラジオストクへの視察ツアーを企画して新潟の商人を送り出したり、ウラジオストクと新潟を結ぶ定期航路を開設する取り組みを始めます。一方、町長在任中に航海に出ていた西尾与平は七尾町に戻り、七尾港を新潟同様の開港地にする運動を始めます。

「北海道の先」へ行った人たち

小熊幸一郎像
ふるさとの太郎代にある小熊幸一郎像

現在ロシア人が暮らしているサハリン島は、1875(明治8)年に樺太千島交換条約でロシア領と決まるまで、日本領でもあり、ロシア領でもあり、アイヌや北方の先住民、ロシア人、日本人も暮らしていた場所でした。北海道でもサハリン島でも漁業が行われていて、大きな漁場では新潟から出稼ぎで働く人や、自分で漁場を経営する人たちがいました。

明治10年代になると、こうした人々がサハリン島北部のロシア領や、海峡をへだてたロシア領のニコラエフスク付近でも漁を行うようになっていきます。伏見半七と西尾与平は貿易を目指してロシアに行き着きましたが、北海道、サハリン島南部で漁業をしていた人たちは、豊かな漁場を求めるうちにロシアに行き着いた人たちでした。

この中には現在新潟市北区となっている海沿いの村々出身で北海道へ移住した小熊幸一郎、内山吉太がいます。新潟と北海道は、江戸時代から盛んに船が行き交い、関係が深かったのです。そして日本人が経営する漁場や、現地の人たちが営む漁場から魚を買い付けるために船でサハリン島まで出かけていた中に、後に新潟最大の北洋漁業家になる田代三吉たしろさんきちや、片桐寅吉かたぎりとらきちがいました。

「漁業」なのに「貿易」?

北洋漁業はロシア領で行われていました。船に積んで持って行く自分たちの食料や身の回り品は輸出品、そして船に積んで持ち帰ってくる魚は輸入品です。日本から出すとき、日本に持ち込む時に通関手続きといって、税金を払う必要がありました。そしてこの通関手続きができるのは、税関のある開港地だけです。

光正丸が対岸での漁業を成功させると、富山県や石川県、京都府や島根県など、新潟と同じく江戸時代に北前船で栄えた町の人々も北洋漁業を始めるようになっていきまます。対岸ロシア領の海へ漁に出るには、行きも帰りも税関に寄らなければなりません。日本海側で税関があるのは当時新潟と函館だけでしたから、そのどちらかです。沿海州と呼ばれたウラジオストク周辺であれば、函館から行くよりも新潟から行った方が近かったため、新潟港にはしだいに北洋漁業の船が集まるようになりました。

開港してからおよそ20年の間、ほとんど実績のなかった新潟税関は、これでようやく貿易の業務を行うことができるようになりました。