漁の間は寝不足ねぶそく

北半球きたはんきゅうでは6月末に太陽が出ている時間が最も長くなりますが、北へゆくほどその時間は長くなり、北極圏まで行くと一日中太陽が沈まなくなります。カムチャツカ半島は北緯60度ほどで、新潟と北極圏の中間あたりに位置しています。そのカムチャツカの漁場で働いた漁夫は、こんなことを書いています。

何しろ日の暮れるのが午後11時、午前3時にはもう太陽が出る。到底新潟などでは想像もつかない。陽のある間は仕事だ。身体の弱いものには出来ない。1930年10月15日新潟毎日新聞『カムサツカ漁夫物語』

彼らは朝2時半に起きて漁を始め、5時に朝食、10時に昼食、午後3時に夕食を食べて夜の10時に夜食。1日4度の食事したそうです。

「せんべいみたい」な鮭

サケマスは捕まえたらすぐに内臓を抜き取って塩漬けにされます。その際、昔は容器に入れず浜に積み上げていたそうです。下の方にある鮭は、積み上がった鮭の重みで潰れていきます。大漁の年には船に積めるだけ積んで帰るので、船の底に置かれた鮭が新潟へ着く頃には「せんべいみたい」にぺったんこになっていたそうです。

ロシアの鮭が信濃川へ!

1917(大正6)年10月1日のことです。北洋からサケマスを満載まんさいして新潟港へ着いた船が、荷下ろしの順番を待って信濃川に停泊ていはくしていました。長野県で雨が降り続き、信濃川が増水し1隻の船が流れ始めました。そしてその下流に停泊していた船に次々と衝突。7隻が沈没し、積み荷のサケマスが流出してしまいました。数は明らかにされていませんが、10万尾以上は流れたと思われます。

この後も信濃川の増水は続き、新潟市江南区で信濃川堤防が決壊けっかい。のちに「曽川切れ」と呼ばれた大洪水こうずいの始まりでした。流れ出したサケマスは拾い集められるような状況ではなかったでしょう。

初めての鮭缶成功、ヨーロッパへ輸出

香ばしく焼いた塩鮭は白いごはんによく合いますが、欧米の食事には合いません。北洋でとれた大漁の鮭は、現地で塩漬けにする限り売る先が限られていました。明治30年代から缶詰に加工してヨーロッパに輸出しようという動きはあったのですが、当時缶詰づくりはなかなか成功しませんでした。初めてこれに成功し、ヨーロッパ向けに輸出したのが堤清六の堤商会です。今も目にする「あけぼの印」の鮭缶は1913(大正2)年に誕生しました。株式会社マルハニチロのホームページにも紹介されています。

塩はどこから?

樺太漁場の塩補給船
昭和初期サハリン島の鈴木佐平漁場。洋上に浮かんでいる船は塩補給船です

魚を保存するための塩は大量に使用しました。毎年200万尾以上のサケマスを輸入していた田代三吉は、1920(大正9)年、1,722トンの塩を注文しています。

この頃、塩は日本産、台湾や中国産、ヨーロッパ産などが使われていました。日本産塩の産地は瀬戸内地方、台湾中国産の塩は九州の門司港に集まっていたため、漁に出る前に船で九州や四国へ向かい、塩を積んでから漁場に向かったり、漁場に輸送船で塩を届けてもらったりしていました。

北洋漁業家の高橋助七は、船を使って漁業だけでなく砂糖や塩を買い付けて運ぶことも仕事にしていました。

お寺でストライキ?

1910(明治43)年5月のことです。北洋漁業家にやとわれて漁場へ物資や漁夫を運ぶ船員たちは、出航のしばらく前から準備のために新潟に集まっていました。この年、ロシア領で漁場を借りた新潟の北洋漁業家は20人、出した船は113隻、船を操る乗組員は全部で1,118人いました。この乗組員たちが、船ごとに3人の代表者を選び、元祝町の願随寺に集合してきました。

彼らは漁獲量ぎょかくりょうに応じて払われる歩合給ぶあいきゅうの賃上げを船主に求めたけれど聞いてもらえなかったため、相談し、あえて間もなく船を出さなければならない時期に集まったのでした。現在、ストライキは労働者ろうどうしゃ権利けんりとして認められていますが、当時はまだ労働者を守る法律はありませんでしたから、願随寺に集まった中の5人が警察に捕まってしまいました。

この時の要求が通ったかどうかは定かではありませんが、その後も根気強く賃上げ要求をしたようで、雇い主である北洋漁業家たちは他の県の漁業家に船員の給料を問い合わせて調べたりしています。

ちなみにこの時は、参加者全員申し合わせて『各自米1升、金50銭』を手に、朝7時から集まったそうです。交渉が長引いたら、持ってきたお米をその場で炊いて食べるつもりだったのかもしれませんね。

クルシカとミルクのおかゆ

日露漁業協約には、日本人の漁場をロシア人がいつでも検査できるよう、必ずロシア語通訳を一人置かなければならないと決められました。ロシア語通訳として北洋で働いた立川甚五郎たちかわじんごろうは、10代で大陸に渡っていた人です。そして通訳から北洋漁業家になりました。奥さんも日本人ですがロシアでの暮らしが長かったため、立川家ではコップをロシア語の「クルシカ」と呼び、パンを焼き、おかゆはお湯ではなくミルクで炊いていたそうです。