遅れた開港

「開港五港」と呼ばれた新潟、横浜、神戸、長崎、函館。これは1858年に日本が諸外国と結んだ、安政五ヶ国条約と呼ばれる条約によって指定された国際貿易港です。この条約を結ぶ以前、日本は徳川幕府が国際貿易を独占しており、幕府以外は外国とモノを売り買いすることができませんでした。

この条約によって横浜と長崎が1859年に開港し、外国との貿易を開始します。横浜と長崎には外国人の貿易商がやって来て、日本人に欧米のさまざまな商品を売り、日本からは絹糸などを買っていくようになりました。新潟の開港は1860年に予定されていましたが、遅れているうちに神戸、函館が開港し、条約に含まれていなかった大阪も開港し、新潟が開港しないうちに条約を結んだ徳川幕府が倒れてしまいました。

1868年に京都で始まった戊辰ぼしん戦争は、天皇を中心にして新しい政府を作ろうとする人々と、徳川幕府を支えた会津藩、桑名藩などとの間で起こった戦争です。戦地は京都から北海道まで、1年近くにわたって戦争が続いた中で、新潟県は特に大きな戦闘が行われた地域でした。このために、新潟の開港は遅れ、1869年1月1日にようやく開港を果たしました。横浜の開港からは10年も遅れていました。

江戸時代の新潟港

新潟が横浜などと並んで開港場に選ばれた理由は何でしょう。

1つは、新潟港が江戸時代には全国有数の栄えた港だったことです。江戸時代には列車も自動車もありません。大きくて重いものは船で運ばれていました。当時の船は木材でつくられており、今の船ほど大きくはなく、安定していなかったため、日本海の沿岸を港をたどるように行き来していました。太平洋側は近くに陸地がなく一年中波が高いですが、日本海側は冬に波が荒れるのを除けばとてもおだやか。ですから江戸時代にはモノを運ぶ船はおもに日本海の海を行き来していました。

日本海に面した港の中でも特に新潟が栄えたのは、新潟に信濃川と阿賀野川があったからです。新潟港に着いた荷物は、別の船に積み替えて信濃川と阿賀野川を通して船で目的地の近くまで運ぶことができます。

新潟港とモノをやり取りできる川港は、三条市、長岡市など新潟平野の全域と、遠くは南魚沼市、阿賀町までありました。当時、おもに運んでいた荷物は米です。当時、給料や税の一部がお金ではなく米でやり取りされていましたから、米は人々の主食であるだけでなく、お金の役割も担う重要な商品でした。この米が、新潟県全域と会津藩の米が川を通じて新潟港に集まったからこそ、新潟の港は栄えたのです。

新潟港が開港場に選ばれた理由はもう一つあります。安政五ヶ国条約が結ばれる頃、新潟の町は天領、つまり徳川幕府の直轄ちょっかつ地だったことです。条約を結んだイギリス、アメリカなど相手国からは「日本海側の港を2つ開港してほしい」と望まれていました。新潟港は信濃川河口に面しているため水深が浅く、欧米の大きな船は近づくことができませんでしたから、外国からは七尾(石川県)などの開港を要望されていました。しかし七尾は加賀藩の領地だったため、徳川幕府が勝手に取り上げることができません。この頃は徳川幕府は倒れる寸前でしたからなおさらです。このため新潟と、同じく当時天領だった佐渡えびす(両津港)が開港地に選ばれました。

開港はしたけれど…

新潟が開港した1869年1月1日は、まだ戊辰戦争が函館で続いており、少し前まで戦争が行われていた新潟は受け入れ体制も整っていませんでした。新潟税関ぜいかんの場所を決め、大急ぎで建設され、開港の翌年に開かれました。大幅に遅れ「待ちに待った!」はずの本州日本海側唯一の開港場でしたが、外国との貿易はほんのわずかしかありませんでした。

新潟ができて落ち着いて業務ができるようになった1870(明治3)年、新潟港にはアメリカ、イギリスなどから20せきの貿易船が入港し税関を利用しました。この年の貿易の内容を見てみます。

  品名 価格
輸入 化粧石けん 38円87銭5厘
白砂糖 840円
シナ油 8,100円
石炭 2,200円
34円50銭
輸入合計 15,904円12銭5厘
輸出 蚕卵紙 600円
干しアワビ 128円
576円
なまこ 80円
菓子類 400円
輸出合計 6,127円60銭

『新潟税関沿革史』より作成

輸出と輸入の合計は22,031円72銭5厘です。同じ年、先に開港していた横浜港の輸出入合計は3400万円ありました。

新潟港の貿易は、このあと増えることはなく1871(明治4)年には出入りした船の数が4隻になり、1880(明治13)年にはとうとう1隻も貿易船の出入りがなくなってしまいます。この年のすべての国際貿易港で行われた輸出入合計はおよそ6400万円、貿易船の出入りがなく輸出入額0円の新潟港は開港した意味がありません。そして江戸時代から港で生活してきた新潟の人々にとっては、情けないだけでなく町の将来を不安にするものでした。

新潟港の貿易が、どうしてこれほどふるわなかったのかは、考えてみてください。