毎日鮭が食べられる

明治に活躍した社会運動家の内村鑑三うちむらかんぞうは1881(明治21)年、わずかの期間ですが新潟の私立学校である北越学館で教師をしていました。この時彼はアメリカの友人に新潟の住み心地について手紙を送っています。そこには「毎日3食鮭を食べることができる」 と書かれてありました。わざわざ友人に手紙で知らせるのですから、東京で生まれ育ち、北海道で学生生活を送った内村鑑三にとって、新潟に鮭が豊富なことは驚きのことだったのだと思われます。

この手紙が書かれたのは、伏見半七と西尾与平が新潟港で初貿易を行う前の年、日露戦争で日本が勝ってロシア領で盛んに漁業を行うよりおよそ20年も前で、まだ新潟で北洋漁業は盛んになってはいません。この頃のことははっきり分からないのですが、北洋でサケマス漁を行っていたことが分かっているのは有田清五郎、そして北海道やその先のサハリン島などへサケマスを買付けに行っていたのは田代三吉、片桐寅吉です。

秋になると川をさかのぼってくる鮭は大昔から食べられており、内村鑑三が食べた鮭が北洋から新潟に送られた鮭なのか、新潟の川で獲れた鮭なのかは分かりません。しかし、信濃川で獲れる鮭は実はそれほど多くはなく、北洋からの鮭がなかったら毎日三食鮭が食べられるということはなかったでしょう。

新潟市民は塩鮭が好き

現在日本では、鮭はあらゆる魚介類の中で最もたくさん食べられています。とりわけ新潟市は生鮭の消費量が年間1世帯あたりおよそ3kg(総務省家計調査2016-2028平均)で、全国の県庁所在地、政令市などの都市別ランキングで9位。ところが塩鮭はおよそ4kg(同)で第1位。2位の秋田市より1kg近く多く、全国平均の3倍以上食べられています。新潟市民がこれほど塩鮭をたくさん食べるのは、明治から昭和初期まで栄えた北洋漁業の影響が色濃く残っているからではないでしょうか。

北洋漁業最盛期の鮭

北洋漁業が盛んだった時期は、日露漁業協約が結ばれてロシア領での日本人による漁業のルールが決められた1907(明治40)年から、ロシアで革命が始まって政治が不安定になる1918(大正7)年の間。以下は1914(大正3)年に50万尾以上獲った新潟の漁業家です(『新潟県北洋漁業発展誌』より)。

  • 東洋物産株式会社 302万8千尾
  • 堤清六 190万尾
  • 片桐寅吉 153万1千尾
  • 浅井惣十郎 123万9千尾
  • 田代三吉 108万5千尾
  • 新潟商事株式会社 92万尾
  • 鈴木佐平 74万7千尾
  • 小川善五郎 50万6千尾
  • 立川甚五郎 50万1千尾

この全てが新潟港に入ってきたわけではなく、函館港や横浜港など販売先によって陸揚げする港を変えていました。特に田代三吉は新潟県内全域だけでなく関東各地に広く販売先を持っていました。それでもものすごい量の鮭が新潟に入ってきたことがうかがわれます。

ちなみにこの1918(大正3)年は、信濃川をはさんだ新潟市と沼垂町が合併した年で、新潟市の人口は9万人あまりになりました。この年最もたくさん獲った東洋物産株式会社の漁獲分が、新潟市民1人当たり33尾にあたります。ほかに50万尾に満たない漁獲の北洋漁業家が何人もおり、全部合わせると市民1人あたりで100尾を超えていました。